MCKKのお香を1本焚いた様子。煙が立ち上る正面からのイメージ

聞香という寄り道──香りと向き合う日本人の感性

香りを「聞く」という言葉を知っていますか?

ただ香りを物理的に「嗅ぐ」のではなく、香りと向き合い、全身で味わい、その余韻に耳を澄ますこと。「聞く」という言葉には、感覚をひらき、受け取るという繊細な精神性が込められています。

たとえば、茶道が「お茶を飲む」ことそのものではなく、もてなしの心や季節感、空間や所作に意識を向ける文化であるように、香道もまた「香りを嗅ぐ」ことにとどまりません。香木を焚き、その微細な香りの違いを味わい、香りから連想される風景や記憶に身を委ねる行為——それが聞香です。

香木には沈香(じんこう)や伽羅(きゃら)といった希少な種類があり、それらは熱によって立ちのぼる微細な芳香を発します。これを深く静かに味わう行為は、感覚を研ぎ澄ませるだけでなく、精神を整える儀式でもありました。香りは目に見えず、形もないからこそ、人は自分の感覚を頼りに、今この瞬間に集中する必要があります。

聞香の起源は6世紀の仏教伝来とともにあり、貴族の遊びや武家社会の教養として発展してきました。香りを通して、過去と現在、空間と記憶、他者と自分が交差する——そんな精神性が、香りを「聞く」という独自の表現に表れています。


聞香と寄り道の関係性

聞香には、効能や目的、正解がありません。香りを嗅いで「これは◯◯の香りだ」と特定することは求められず、むしろ何を感じ、どう連想するかにこそ価値があります。
香りの違いを言い当てる「組香」のような形式もありますが、それはあくまで香道の一部の遊戯的要素であり、本質的には「香りを味わうこと」そのものに重きが置かれています。聞香の場には沈黙があり、間があります。

意味を急がず、言葉にせず、ただ感じることを楽しむ——そんな行為は、現代においては特に非生産的で目的地のない「寄り道」のような時間だと感じられるかもしれません。
私たちは日々、効率や成果を求め、何かを“するために“動き続けています。 聞香は、そんな直線的な時間から離れ、自分の感覚に問いかける時間です。

 
MCKKが考える香りの体験:ズレ、ズレ直し、そして没頭

MCKKでは、香りを単なるリラックスの手段とは考えていません。
むしろ、香りとは、自分の感覚の“ズレ“に気づくきっかけだと思っています。 なんとなく落ち着かない、気が散る、考えがまとまらない——そうした状態に、「あ、ちょっとズレてるかも」と気づくこと。

お香を焚くという行為は、そのズレを無理に直すものではありません。 煙の揺れや香りの変化に身を任せるうちに、少しずつ感覚が整っていくこともあるし、整わないままでも「それでいい」と思えることもある。
気づけば、何かに自然と没頭していた。
香りを聞くという行為は、自分を整えることよりも、整わない自分をそのまま受け入れることかもしれません。
MCKKのお香は、そんな寄り道のためにそっと置かれた、小さな扉です。

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