しめ縄となわばり:心の境界線がつくる日本文化。閉じた意味の中で生まれた多様性

しめ縄となわばり:心の境界線がつくる日本文化。閉じた意味の中で生まれた多様性

いつの間にか、私たちはたくさんの「境界線」を越えて生きている。

国境、業界、ジャンル、役割。

デジタル化が進み、ひとつの場所や職業にとらわれなくてもよいという選択肢が生まれた現代。境界線を越えることは自由と成長の象徴として語られることも多い。一方で、越えずに留まることは、守るための選択でありながら、変化の多い現代では価値としての評価が分かれる。

けれど、日本の文化を辿ってみると、どうやら少し違う景色が見えてくる。

あえて境界線を越えないこと。内側にとどまり、守り、深めること。
その選択が、長い時間をかけて多様な文化と知恵、そして技術を育ててきたのではないか。

しめ縄は、その象徴のひとつだ。何かを強く主張するわけでもなく、声高に意味を語るわけでもない。ただ、そこにあり続けることで、日本における境界線の感覚を静かに伝えている。

 

しめ縄とは?その意味と願い

神社や家の玄関、古い木や岩に飾られているしめ縄。
見慣れた存在でありながら、その意味まできちんと考えたことがある人は、意外と少ないかもしれない。

私もそのひとりで、しめ縄の意味を深く教えられることもなく時が過ぎ、よくみる風景のひとつとして、また「正月や神社を飾るオブジェ」のように捉えていた。

しめ縄は、神聖な場所とそうでない場所を分けるための目印。

清められた場所を示し、災いを中に入れないための結界、という静かなメッセージだ。その由来は古く、日本神話の世界にまでさかのぼる。

古事記には、天の岩戸から天照大神が姿を現した際、再び隠れてしまわないように岩戸の前に縄を張ったという記述があり、これがしめ縄のはじまりだともいわれている。しめ縄は、神に自分たちを見守ってもらうために引かれた境界線だった。

しめ縄は、神社や神棚に飾ることで「神様を祀る神聖な場所」であることを示し、正月の玄関では「災いを家の中に入れないための結界」としての意味を持つ。

ただ、改めて興味深いのは、しめ縄のあり方だ。

 

いわゆる壁などと違って、しめ縄は何かを物理的に制止したり遮断するものではない。ほどこうと思えば簡単にほどけるし、越えようと思えば簡単に越えられる。

しめ縄が物理的にはほとんど何の力も持たないにもかかわらず、人々はその境界線を敬う。大切な場所に吊り下げ、目に見えない境界線を可視化する。しめ縄は、人の心に判断を委ね、「願い」を投影した存在なのだ。

 

手が傷だらけに。実際にしめ縄を作って思うこと

実際に、しめ縄を作る機会があった。

乾燥させた藁を撚り、ねじり、力を込める。
単純そうに見えて、思った以上に難しい。

油断するとすぐに形が崩れ、ほどけてしまう。何度もやり直すうちに、乾燥した藁に手のひらや指の水分がとられ、皮膚は次第に赤くなり、傷が増えていった。

 

私の肌が弱いのもあるけれど、あっという間に手が傷だらけになる作業を続けながら、ふと気づいた。「しめ縄をまとめるためには、強い想いが必要だ」という感覚に。

しめ縄につかわれる藁は、稲穂が実る前の青々とした状態で収穫されたお米の葉っぱを乾燥させたもの。古くから日本では、お米は単なる食料としてだけでなく、納税などのお金の代わりとして、そして神を投影するような意味合いで大切に扱われてきた。

日本人にとって、尊い米の断片でもある藁。それに、想いや願いを力強く込めていく。

 

「守りたいものがある。この場所を大切にしたい。」

そんな想いの強さが、藁を撚るために必要な力の強さに投影されている気がした。

しめ縄は、境界線を示す結界でありながら、ある種の祈りのかたちでもある。
作るという行為を通して、そのことを身体で理解した気がした。

 

しめ縄となわばり:日本文化に根付く暮らしの境界線

かつて、村の境界線にぐるりと一周しめ縄を張り、その内側だけで暮らすという慣習が日本にはあったという。たった一本のしめ縄が合図となり、村人たちは境界線を超えない。これが「なわばり(縄張り)」の起源だとも言われる。

現代の感覚でなわばりという言葉を聞くと、どこか排他的で、閉じた印象を受けるかもしれない。けれど本来のなわばりには、少し違った意味合いもある。

それは、自分たちの暮らしを守るためのセキュリティネットワークだ。

顔の見える範囲で生活し、役割を分かち合い、時には助け合う。境界線を越えない代わりに、内側の関係性を守り、しっかりと固めていく。その積み重ねが、日本の文化の基盤をつくっていった。

村や地域という地理的な境界線を守ることは、暮らしだけでなく、その土地に根付いた仕事や技術を、内側でじっと育むことでもある。

人々が境界線を超えずに内側に留まるからこそ、そこで生まれた知恵や伝統技術は、外と交わることなく時間をかけて独自のかたちに磨かれ、継承されていった。

 

はみ出してはいけない — 心の境界線が生んだ文化の多様性

しめ縄や止め石(関守石)は、境界線に対する日本の考え方を示す象徴的な存在だ。
これらは、それ自体に、誰かを止める物理的な抑止力はない。

それでも、これらの目印が示す境界線を日本人は越えなかった。なぜなら、そこには「はみ出してはいけない」という自制的な意識があったからだ。

この「心の境界線」は、日本文化のさまざまな場面に影響を与えている、と私は考えている。地理的にも精神的にも、境界線の内側で完結する時間が長く続いたことで、同じ日本といえども地域や流派によって、驚くほど細やかな文化の違いが生まれた。

織物、工芸、祭り、食。
気候や風土に合わせた自然素材の選択。地域ごとに磨かれてきた独自の技法。
そして「門外不出」という言葉に象徴される、閉じた継承のかたち。

 

たとえば葛飾北斎は、師の流派の枠を越えて他派の画法を学び、取り入れたことで、35歳で破門されている。境界線を越えることは、それほどまでに重く受け止められ、内側に留まることこそが正しい道だと強く考えられていた時代もあったのだ。

このような価値観のもと、日本では範囲を限定された内側を深めることが選ばれてきた。外へ向かわず内を深める意識が、地域や家系に続く独自の文化を育てていった。

「境界線を越えてはいけない」という意識のもと、他と交わらず、内側を深める時間が積み重ねられてきたことが、日本国内での文化の多様性を生んだのだと思う。

 

私自身、10年以上にわたって日本各地を訪ね歩いてきたが、そのたびに、地域ごとの文化の違いに驚かされる。ときには、海外で感じる文化差よりも大きな衝撃を受けることすらある。

日本文化においては、外に出ることよりも、内側にとどまる時間を選び続けてきた。その長い時間が、所属するコミュニティごとに異なる、独自の文化を育てる土壌へと変換されていったのだと思う。

 

境界線を「心」にゆだねる日本文化

日本の境界線に対する意識は世界的にみても独特だ。ここで、一度視点を日本の外へ向けてみたい。


 ベルリンの壁

世界における境界線は、多くの場合、物理的な壁として存在してきた。
国境の塀、有刺鉄線、コンクリートの壁、検問所。それらは、越えようとする者を物理的に制止し、越える行為に対して負荷を加えるよう設計されたものだ。

境界線は、突破される前提で作られている。
だからこそ、越えることは挑戦となり、ときに英雄的に語られる。

壁を登る、越境する、征服する。

そこには「勝ち取る」という価値観がある。なぜなら、欧米を代表とする多くの大陸文化では、拡大や成長が正義だとされてきたからだ。そのためには、個が全体から突出することにも価値を見出す。

 

一方、日本の境界線は、驚くほど弱い。
しめ縄も、関守石も、誰でも簡単に越えられる。それでも越えない。

境界線を成立させているのは、壁ではなく、空気や自制的な調和だ。
しめ縄は、「入るな」という命令ではない。「ここは大切にされている」というメッセージ。境界線は、排除のためではなく、価値を守るために引かれている。

 

歴史を振り返れば、世界の多くの地域では、国境や支配のかたちは幾度となく塗り替えられてきた。

ローマ帝国の拡張と崩壊。
王朝が入れ替わるたびに地図が書き換えられてきた中国。
時代ごとに姿を変えてきたエジプト文明。

境界線は、外へ広がり、また引き直されるものだった。

 

そうした世界の流れと比べると、日本は、国土の輪郭を大きく変えることなく、同じ土地の中で時間を重ねてきた社会だと言える。

境界線は、外側に向かい広げるものではなく、内側に向けた動かぬ守りの意識。
それが、日本文化における境界線のあり方だった。

 

現代への静かな問い

デジタルの普及も相まって、境界線が曖昧になり、越えることが前提になった現代。
私たちは、どこまでを「内側」と呼び、何を守ろうとしているのだろう。

開き、広げていくことが、豊かさなのだろうか。
それとも、あえて線を引き、内側を大切にすることに、別の価値があるのだろうか。
しめ縄は、答えを押しつけてこない。

ただ、そこに在り続けることで、問いを差し出してくる。
境界をどう引くか。

何を守り、何を開くのか。

しめ縄は、古い慣習ではない。
境界線の思想として、今も日本のどこかで、静かに息づいている。

 

夏子 Natsuko

イギリス、オランダ、スペインでの生活や仕事、帰国後も世界の文化に触れる環境に。ファッション業界での仕事が長く、世界の職人技術が身近な存在でした。巡り巡って、今は自分のルーツである日本の伝統文化に熱中。

感性を大切にしながら本質を見つけること、文化比較や再解釈が好きです。MCKKではブランディングや企画、海外視点のあれこれに携わっています。

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